文学の根源へ

 年末年始にはあれこれと本を読んだが、フランツアルトハイム『小説亡国論』は面白かった。

 定型を持たず、事象すべてを貪婪にのみこみ混沌と化してゆく長編小説という表現方法は、古代ギリシャから現代まで通じて、社会それじたいの混乱を如実に示しているのではないか、といった主張。《詩歌のみがあおざめたのではなく、健康に害のある同じ食物で養われたかのように、あらゆるものが白髪の老年に達する力を欠いている》とペトロニウス「サチュリコン」にあった台詞をつい思い出す。
 《小説好きが昂じてくると、実生活の中でも小説を求めるようになってしまう。恋愛や性生活の夢を読者は現実の中に無理にもねだって求めるようになる。読者は実際の生活でも義務に縛られない生き方を選び、恋愛や、夫婦関係の中の恋愛の魅力や、義務遂行の夢を求めるようになる。つまり読者は奇蹟を求めるようになるのだが、奇蹟を期待することを教えたのは実は小説である。しかし、人間の生活に奇蹟が入りこんでくるといっても、それが実際に起こるのは、たいていの場合恋愛以外の領域である。》《小説の意味するところは、別の世界へ、自身の世界への逃避である。重苦しく煩わしい現在から逃れて、より良い国へ赴くことを、小説は促す。これは、戦争の時代や危険の時代にはどうしようもない決定的な形をとって露われてくる。このような外からの圧迫の増加とともに、小説を書いて生活を立てる者も増えるとすれば、それは内的な危機が外に露われたということを物語っている。外からの圧力にどうにも耐えられなくなると、それを克服しようと努力するのをやめて、それを避けるものである。つまり自分の時間から逃げるのである》といった指摘は、あまりにも保守的な考え方(たとえば演劇を批判したアウグスティヌスのような)に映るかもしれないが、小説という形式がまるで文学の代表であるかのような現在の扱われ方、あるいは猫も杓子も(オメコも弱者も)小説に向かうかのごとき風潮への辛辣な批判といえよう。まったく素人の小説とはひどいもんで、短いスカートを買ったらからかわれて転んだとか、誕生日に酒を飲みすぎてゲロを吐いたとか、ウンコ水準としか思えないものを平気で書き散らかすバカが存在するのだ。
 アルトハイムの論考は、エドマンドウィルソンの「韻文は滅びゆく技法か?」という一評論と対をなしているように思う。ウイルソンのばあい、詩を上位文化、小説を下位文化とする考え方とは無縁で、新しい表現様式を大いに認めようとするものだ。まあどっちが優位だろうと劣位だろうとかまわぬのだが、現在文学を志す者はいますこし文学の根源、もしくは人間の根源というものを考察してゆかないと、表面的で陳腐な文学情勢論ばかりがまかりとおり、真の文化の再生は不可能になってしまうだろう。

 石原武『遠いうた』は、アメリカ黒人や先住民、ハワイ先住民などのさまざまな詩を紹介している。ウイルソンは前掲論文にてアメリカの新しい詩としてフォークソングを評価しているけど、石原もまたブルースに注目している。『大地にしがみつけ』のハウナニケイトラスクも詩を書いているのだと知る。最終章ではバウラ『未開の唄』という書から、諸民族の歌が引かれている。たぶんバウラは、篠田一士が『ヨーロッパの批評言語』に書いているサーモーリスバウラというギリシャ古典文学者と同一人物だとおもうが、こんな本も出しているんだな。翻訳も出してほしい。俺はまだ文学青年だった学生時代に、アメリカ先住民の口承詩を集めた金関寿夫の『魔法としての言葉』、知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』、真木悠介『気流の鳴る音』をほぼどうじに読み、文学概念が変容し、小説を中心とする近代文学から離れた経験があったため、ことのほか懐かしく感じた。先住民族の詩を読むにつれ、《民謡の断片、異国の詩の翻訳、未開人の書いたと称する讃歌、食人種の作になるオード、エスキモー詠むところの小歌といった、このところ二十年来巷間に溢れる掘り出し物のたぐいいっさいに彼は見切りをつけたのだった》と「感情教育」初稿に書きつけたフローベールは真のインチキ文学者だったと思わざるを得ない。こんな作家に影響を受けた金髪カツラのウンコ人間どもがはびこっているから、日本文化は衰弱するのだ。

 と、いうわけで、じつをいえばやっとオイラも本格的に小説を書く気になったのだ。しばらく資料を読んで、夏までには書きあげたいな。

この記事へのコメント

2008年01月13日 01:24
遊びに来ました~。小説、書くんですか?
楽しみです。
小説も映画も舞台も、その世界に入っちゃいますね。
あまりに感動した場合、読んだり、見てしまった事を、後悔したりして。
やっぱり、現実とかけ離れているからなのかな?
うどんさんの言う様に、小説、読む時、
現実から、逃避したい部分あるかも。
2008年01月14日 07:27
芸術と現実の関係は難しい問題ですね。私はブレヒト流の、現実に立ち向かうための表現を目指したいと思っています。小説書くのもなかなか大変ですよ!

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