本多勝一の謎

 『WiLL』という雑誌で、本多勝一の経歴疑惑についてふれている。それによると、本多の生年は1931だったり1933だったりする。最終学歴も、俺はてっきり京大卒と思っていたが、じつは千葉大薬学部卒で、京大は卒業せず朝日新聞に途中入社したようだ。ちなみにいま手元にある朝日文庫版『日本語の作文技術』には、「1932年、信州・伊那谷生まれ。京都大学農林生物学科から朝日新聞社入社」と書かれている。

 まえにでた東洋医学に関する本で、本多の肩書のひとつが薬剤師になっていたのに驚いたことがあったが、千葉大時代に免許を取ったのだろうか。まあ京大に入学したのはたしかなようだから、卒業してなくてもそう目くじらを立てるほどのものでもないだろう。
 本多勝一は、いまどれだけ読まれているのだろう。むかしは宮崎美子が本多の愛読者だったり、浅草キッドの水道橋博士が本多の影響を受けたと語っていたり、アメリカ合州国と書くのがそのひとの社会思想の表現だったりした時期があった(加藤典洋もこう表記してたことあったはずだ)。俺も本多の著書で反体制にかぶれ、潮・噂の真相・朝日ジャーナル・サンデー毎日・週刊金曜日とそのコラムを、現在に至るまで読みつづけてきた者だし、その意見の多くに賛成もする。でもソルジェニーツィンに騙されまい、という一文とか、しつように行なわれる大江健三郎批判にはついてゆけない部分もあった。井上ひさしが金曜日の編集委員を降りたのも、本多の大江批判に嫌気がさしたからだと伝えられている。リクルート接待については、宅八郎が論じているとおり、本多のジャーナリスト生命が終わるほどのたいした問題ではない。むしろ金曜日の創刊こそが、社会批評家としての本多を殺してしまったのではないかとの思いが残る。
 『WiLL』記事によると本多勝一は探検取材で有名になって以後、勤労者通信大学なる共産党系の講座で左翼思想の洗礼を受けたらしい。
 『中国の旅』という取材記は読んでない。だけど、その後もう一度行なわれた中国取材で、その教育施設を礼讃してるのを読んだとき、「これは文化大革命の真っ最中じゃなかったかな」と思ったのだ。鈴木明は『中国の旅』が発表されてすぐ、そういった疑問を抱いたらしい。イザヤベンダサンとの論争もいま考えると、両者とも新聞記事の有無にこだわっただけに終わっていて、一番目立ったのは浅見定雄だったのではないか。俺は南京大虐殺については、結局それっきりなんの知識も持たずにきているのだが、『中国の旅』については、やっぱり中国政府の宣伝にしかならなかったのではないかと思うようになった(だがそれと近代化・帝国主義化への反省は別問題だ)。死んだ野村秋介は、本多にあったら殴る、と語っていたが、同じ飲み屋で別別に飲んでいたとオカトメが報告していたから、本多はそれほど右翼を警戒する必要はないのではないか。それより民族派と積極的に対話し、共闘すべきなのだ。たとえ本多が文化工作員みたいな人物に洗脳されていたとしても、本多の自然や先住民族への想いは先験的なものとしてあるはずだ。
 さて、本多勝一最大の謎、それは近年の本多がV音をワヰウヱヲに濁点をつけて表記していることだ。なぜそんなことをするのだろうか?
 最後に、本多は成城に一戸建てを持っているのだそうだ。たぶん大江健三郎も成城住まいだと思うけど、顔を合わせることはないのだろうか。まさか宅八郎に倣って大江を監視するために家を購入したというのではあるまいな。
 かくして、今日も本多の命は、カツラによって守られた。

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