いま、若貴から豚高へ

 私がいつものようにポコチン丸出しで街をさまよい歩いていると、怒りと怯えのパニックに陥った小学生の一群が石礫を私のポコチンめがけて投げつけ、的が大きいだけに当たりやすく、忽ち悶絶。愉快なひとときを過ごすのだった。

 それにしても二子山親方報道の過熱ぶりは異常ではないか。まるで、日本文化を根底から支えているのは、二子山一族なのでは、と錯覚してしまうほどだ。しかし忘れてはならない。日本文化を支えているのは、広瀬隆・小田晋・韮沢潤一郎・大江健三郎の息子・蓮実重彦の超A級文化人五人衆、いわゆる文化ドリフターズなのだということを。
 かつて若貴の確執のころ、快楽亭ブラックが東京の中心に住まうさるお家の兄弟が聖大師に洗脳され争いはじめる「兄弟げんか」という落語を演っていた。噺はつまらなかったのだが、それが最近になってついに現実になったことに、驚かざるをえない。前近代的家族制度とは、そんなにも強固なものなのだろうか。まあ、元嫁を暗殺してしまう某国よりマシだろうか。
 しかし相撲というものは、もともと神事として演じられる芸能だったのだ。地方にはまだ、目に見えない神と相撲を取る独り相撲が残されている。つまり相撲とは、はじめから誰が勝つか決まっている見世物だったのだろう。それがわかっていたなら、無駄に兄弟が争うこともなかったはずだ。相撲は古式を重んじるなら、すべからく独り相撲に立ち戻るべきではないか。範馬刃牙なんかむかしから独り相撲で鍛錬していたぞ。てゆうか「刃牙」が十年前はリアル格闘技漫画とよばれていたことに、隔世の感は拭えない。
しかし、いまは、若貴よりも、遺伝子組換えで生まれた邪悪な豚の化身、豚高だろう。劇評界の肥住とよばれる某氏に気に入られたいがために、それまで褒めていた演劇人の悪口を書いたり、自分で書いた「身体性」なるものの意味を答えられずに涙目になったり、この男の犯してきた悪事はもはやお笑いの域にまで達している。若貴はどうでもいいが、豚高という男への興味は尽きない。いまはただ、若貴を忘れ、豚高を倒し、ひたすらに正義を守るのみ。

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